Kakyo's Diary

気ままな日々のことブログ

この話は涙なしでは語れない

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こんにちは

夏郷です!( ¨̮ )


家族について母にはあえて触れなかったのは色んな想いがありすぎてちゃんと書きたいと思ったから。


今でも、思い出したら涙が出てしまう。


母の人柄


母は亭主関白の父と連れ添い数十年。

わたしは小さい頃からずっと「何であんなお父さんと結婚したの?」と問い続けるも答えは返ってこなかっった。


夫婦には色々あるのでしょうね。

2人だけの時は仲良くしていたみたいです。
わたしの知らない両親の姿がそこにはあったんだろうと思います。


うん。想像しないでおこう。



大阪にいる時はよく電話していました。


基本的に電話で話すと愚痴をよく言っていました。母であり、女友達のようか感覚。もちろん、学生の頃とか、一人暮らししてからもたくさん迷惑をかけてぶつかったりもしましたが、どんなにムカついたとしても母が大好きです。

母の存在がわたしにとってはおっきすぎました。安心できる唯一の場所。いい歳して、くっついて甘えてました笑


母は何事にも前向きで肝っ玉がありました。とにかく精神的に強いです。
母は強しというけど本当にそうです。

母は自分の事は後回しで、よく周囲に気を配り思いやり欠かさず、たくさんの人に親しまれていました。

家族皆んなが、母を頼りにしていました。


よくみんなからの相談や話しを聞いてあげていました。

母も人のことを言うことはありますが、あまり嫌味に感じなかったかな。


母に対してなにか問い詰めるようなことがあっても冗談まじりで陽気に応えて「ふふっ〜ん」って笑うのが印象的でした。

ところどころおもしろい。



料理も上手で、何でもぱぱっと手早く作ってくれてました。家族の集まりには、張りきって煮物やおにぎりを作っていました。


おにぎりってシンプルだけれど、母の作るおにぎりはみんなに好評でおいしいのです。


わたしは未だに、おにぎり下手くそ。
全く越えらんないです!笑


母は何より兄やわたしのことを見守り、常に気にして、どんなときも味方でいてくれました。


いじめで悩んでる時も、母が学校にガツンと言ってやると言って憤慨しているのを見て、ホッとしたのと丁重にお断りしました。

子どもの喧嘩に大人入ったら余計ややこしくなるからね笑


そういう熱い心の持ち主でもありました。




それから、どハマりして韓流ドラマばっかり見て、お菓子ボリボリ食べてるような母ですね!


母の周りは韓流ブームがずっと続いてます。
わたしはあまりハマりませんでした笑


宣告



わたしが病院をやめて、一旦大阪を離れ宮城で生活を始めました。しばらく経った頃に叔母(母の妹)から連絡があり、母が入院したと言われました。


母が救急車で運ばれてやばいらしいと。

母はしばらく体調不良が続いていて、病院に行かないでいた。あまりにしんどそうだったので叔母に言われて渋々近所の病院に行くと、母の状態を見た先生は慌てて病院を紹介して救急車で搬送することに。

それから、色々な検査をして、父も病院にかけつけ、医師から家族を呼んでくださいと告げられたそうです。


この時、すぐに対応してもらえてなかったらどうなっていたか分からなかったと思います。

後で、聞いた話し、母は救急車で行くのは大袈裟で、自分の車で病院に行くと言って先生に怒られたそうです。具合悪いのに強いよねほんと。


本人もみんなもまさかこんな結果を聞くことになるとは思ってもみなかった。



わたしも急いで帰ってきて、みんなで診察室へ。



膵臓がんです。」

「余命は、もって数ヶ月です。」

余命宣告を聞くことになるなんて、思いもしなかった。

現実とも思えなかった。



母本人も心の準備が出来ていたか分かりませんが、医師は本人に告知することを家族に相談もなしにサラッと言ったので、衝撃でした。


結果に対して、もちろん、ショックでしたが、何より母本人に直接告知したことも、衝撃とショックが大きくてその部屋にいるみんな沈黙。


医師は、これまで色々な人たちを見てきて、残された時間をちゃんと理解して、過ごして欲しいという思いからすぐに伝えたと。告知をせずに、これでよかったのかと後悔してきた人たちもいた為、告知を後回しにしても、きついだけだと。


告知を聞いたばかりの時は、家族みんなが母に対して言わないで欲しかったと憤慨したけれど。今思うと良かったのだと思います。


部屋を出て、母の方を気にしてみると驚いていたしぼーっとして落ち込んでるように思いました。


そして母が口をひらき、出てきた言葉に全員がまた驚かされました。


「はがゆさ〜っ!(悔しか〜っ)、何で病気になったとやろうか」

「死んでたまるか、あんたたちが(兄とわたし)結婚するまでは死にきれん、頑張るけん!」


そしてニコッて笑顔を見せました。


「お母さんは大丈夫、病気になんか負けんけん」
って安心させるかのように、強い眼差しで意気込んでいました。



わたしはどんな言葉をかけていいのかも分からないし、何より泣きそうなのを必死に堪えてました。



みんなが、落ち込み沈んだ表情であったけれど、その言葉に救われたような気がします。


母の本心は分かりませんが、とにかく自分が1番辛かっただろうに、自分よりもみんなのことを思えるってすごいとしか言えないです。

わたしは自分のことでいっぱいいっぱいになると思います。



飛んで帰ってきて、母を見ると、肌はくすんだ黄色で目も黄色で黄疸が出ていました。すぐにぱっと見ただけで分かるくらいの症状が出ていたのにこんなんになるまで、家族は気付かなかったのかと問い詰めずにはいられなかったです。


体調が悪いから顔色が悪いくらいにしか思っていなかったようでした。



わたしがそばにいれば、もっと早く気づいてあげれたんだろなと仕方ないことですが思わずにはいられなかったです。


面会時間も終わり病院を後にして、母の前では堪えてましたが、帰ろうと車に乗り込んで、すぐ叔母と一緒にわんわん泣きました。



未だにその時のことをよく覚えています。

忘れたくても忘れられない。



闘病


母の闘病生活は4年と2ヶ月。

余命数ヶ月と言われたけれど希望を捨てず、一生懸命に戦い続けました。


支えるわたしたちの方が、どこまでも前向きな母の姿に励まされていました。

膵臓は無言の臓器といわれ、膵臓癌の初期では特徴的な症状がほとんどなく、症状が体に出始時には、すでに癌の進行がかなり進んでしまっています。


母は、ステージⅣでした。
(がんの進行の程度を示す言葉で、膵臓癌は0~4まで)

膵臓癌が見つかる人の多くはこのステージのようです。


5年生存率はステージⅣでは1.2%とかなり低いのです。


わたしは医療の勉強をしていたので、最初に連絡がきて怪しいところが膵臓と聞いただけで心から震えました。


膵臓癌の関連症状として「黄疸」があります。

黄疸とは....
総胆管(胆嚢から膵臓を貫いて十二指腸に繋がる)と合流するくらいなところまで癌が増えることで、胆管が詰まってしまい、胆汁が十二指腸の中に上手く流れなくなることで見られる症状です。
黄疸による体の変化としては、皮膚や白目が黄色くなる、体全体のかゆみ、尿の色が濃くなる、などが見られる。



母はかゆみが強かったのか、からだ中にひどい掻きむしり後があり、とても痛々しかったです。





大きな病院でさらに詳しく検査をし、治療についての話になり、話しを聞くと厳しい現実でした。

小さい癌が他の臓器にも転移していると。


まずは黄疸の症状を改善するための手術をしました。

希望としては、癌を取ってもらえたらいいと思っていたけれど、癌を取り除くことが出来ないという診断でした。

そして残された治療は化学療法だけだと。


みんなでたくさんたくさん調べて、放射線治療も出来ないかととにかくすがる思いで必死に何とか助からないのかと聞くも、リスクが大きいと言われてしまった。


化学療法も完治は難しいので、癌の進行を少しでも食い止めるものでした。はじめから強い薬で副作用も強いものでいくのか、少しずつ強い薬に変化させていき副作用も少ないものにするのかで母は少しずつ薬を強いものにしていく方法を選びました。


それからも、母や家族は治療方法を探して、見つけたのが、重粒子線治療でした。


重粒子線がん治療は、炭素イオンを、加速器で光速の約70%まで加速し、がん病巣に狙いを絞って照射する最先端の放射線治療法です。


※医療用語って専門的には難しいので、わたしなりに簡単な表現をしたりしています。


これをやったことで少なからずいい方向に向かい、しばらくは安定していました。

小さいものが転移をしているので、完治とはいきませんがそれでも母にとっては、少しでも長く生きていたいという希望だったのです。


それからは、通院治療で、母は仕事もして意欲的に生活をしていました。病院の日は、検査検査検査で毎回癌の数値を見ては落胆したり、安心したりしていました。


わたしは離れていたので毎日のように母に電話して話しをするようにしていました。



治療を続けていく中で、抗がん剤の効果も効かなくなって順番に強い薬のものへと変化していきました。


母の見た目も少しずつ変化していきました。


母は元々太っていて、みるみるうちに痩せ細っていき、副作用のせいか肌も黒ずんでいました。


どんな時も母は明るかったです。

「太っていてよかった!おかげで痩せてもあんまりわからんけん。よかやろー?フフーン(笑)」

母は病気のことをあまり周りに話していなかったようでした。

「肌の為にビタミンとらんば!」

いや。乙女やん!笑




ほんとおもしろいのです。


十二指腸に異変がみつかり、手術もしました。それからは食べる量が減っていき、すっかり痩せていました。


思い出作り


最後の抗がん剤をする前に、高熱を出したり、お腹に水(腹水)が少しずつ溜まり、弱りはじめていた。いよいよ悪化しはじめたのです。

そして体調が落ちついたころに、担当医にお願いして体調を整えて、わたしの住む大阪に行きたいと遊びにきました。


本当に楽しみにしていたようです!


その時には、家族にはすでに治療はもう厳しい、緩和病棟やホスピスについてちゃんと考えておいてくださいと話しはされていた。

母も気づいてはいただろうが、とにかく母の支えは担当医で「全て先生におまかせします」と信頼しきっていた。何より先生のもとで治療を頑張りたいという気持ちが強かったように思います。担当医の先生も母の前向きさや頑張りには驚いていた。

こんなに余命宣告されてから、長期的に頑張ってる人は他にいないと。




担当医の先生はとにかく本人が元気なうちにどんどんやりたいことをやってくださいと、おすすめしていたのでした。


母は新幹線も1人で乗ったことがなく、心配でしたが、ちゃんと来れました。笑
わたしが仕事終わりに急いで迎えに行くと、急いで小走りできました。かわいい…。


とにかくやりたいことは全部やりました。できる限りのことをはりきりすぎましたが、たくさんもてなしました。


京都のメジャーな観光スポットをまわり、USJのアトラクションに乗ったりして、病気のことを忘れてすごくはしゃぎました。

しんどいはずなのに頑張って歩いていたのかなと今思うと反省。


母の大阪にきての1番何がよかったかを聞くと551の豚まんとHARBSのミルクレープでした。
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たくさん色んなところ行ったけど食べものなんだね笑


HARBSのミルクレープはお気に入りでもう1度食べたいと帰る前にも食べていました。あまり食べれなかった母もペロりと食べていました。
わたしも大好き笑


佐賀に帰ってきてからも、温泉旅行に行ったり、色々していたみたいです。


年が明けてすぐに、母は最後の抗がん剤治療をはじめました。強いのでこれ以上はきつい治療であると何度となく説明されていたが、母は諦めなかった。少しでも可能性を信じ続けた。

治療をはじまる前に、悩んではいたが決断したようでした。


事前に髪をバッサリ切っていました。母にとって髪をすごく大切にしていましたし、最後まで髪を切るのを先延ばしにしていました。


髪って本当に重要ですよね。

今までになく落ち込んでいるようでした。

医療用ウイッグも用意していましたが、かゆいのと違和感があるのかほとんど使わないままでした。被っているのはわたしは見たことなかったです。


見たかったな〜。


叔母にとにかく後悔する前に帰ってきてと言われ、わたしは最後の時を過ごしたいと、3ヶ月ほど休みを取り母を看ていました。無理を言って休みをもらえて最後の時を過ごせて本当に良かったとつくづく思います。


副作用で髪は抜け落ち、みるみるうちにからだも耐え切れずに弱っていきました。食事もほとんど食べず、調子がよければほんの少し食べる程度でした。


そんな中で、家族と親戚みんなで長距離は無理なので、近場で温泉旅行に行きました。母は手足の力も衰えていたので車椅子を借りて移動するようにしていました。母もしんどい思いもあったと思いますが、料理も食べ楽しそうにしていました。みんなが、母と過ごす時間を楽しみ、惜しんでいました。


残された時間は少ないのだとみんな理解していました。

帰る際は、本当になんとも言えない寂しい気持ちになりました。

それからの母は、やりきったかのようにさらに弱り1日の大半を布団の上で過ごしていたので、息をしているのか心配でした。

そして家族で話し合って、家でしんどそうにしている母を見ているのが、心配で仕方なかったので入院を選択しました。

話しをすると母は、すごく憤慨しました。

「わたしはちゃんと色々考えてることがあるのに!みんなでわたしを追いやらないで」と。

母にとってそれは死を宣告されたことでしかなかったのです。

本当に嫌だったのだと思います。
できる限りお家にいたかったんでしょうね。

そんな気持ちが感じ取れてすごく辛かったです。

それからの母は最後まで、わたしに対して冷たく当たっていました。わたしにだけだったのです悔しくて、喧嘩したままでした。

1週間経ち、ホスピスへ転院すると同時に、大阪へ戻りました。

母は担当医にお世話になりたかったけれど治療も何もしないとなると医師は来なくなりなんだか悲しい気持ちになりました。母だけが患者ではなく、他にもたくさんの患者さんが治療を望んでいるのは分かっていたけれどそれでもなんとかして欲しい気持ちでした。


母ただただ苦しそうでそんな姿を見ているだけで、泣きそうになっていました。


大阪に戻り、明日から仕事に戻ろうとしていた矢先に朝、父からの電話が鳴りました。



旅立ち


起きて携帯の画面を見て、覚悟しました。
父から連絡が来るなんて、ほとんど無いに等しかったので、そんな父からの電話ですぐに分かりました。

「まさか、嫌や」っともう心臓がとまりそうな感覚だった。



「もしもし…」
「お母さん、今息引き取った。帰ってこい」

「わかった、すぐに帰る」

電話を切って一瞬ぼーっとした。
その一瞬がものすごく長く続いてるように感じて、信じられない気持ちでした。

看取ることが出来なかった為に何でもっとはやく言わないのと父を責めて突然急変したのと、看護師さんの連絡が遅かったからということでした。父を責めても仕方ないことだけれど。

父が到着した時にはすでに意識もなく、逝ってしまったと父も動揺していました。



わたしは帰省する新幹線の中で人目も気にせず号泣してたので、その周りの人はびっくり引いていました。


後から、母は最後の瞬間を誰にも見せたくなかったんだなってみんなで話していました。


それからは悲しむ間もなくあっという間でした。

葬儀ではじめて父の涙を見たのも忘れられません。


それから3ヶ月から半年頃に大切な存在を失ってしまった悲しみが押し寄せて、毎日毎日泣き続けました。


仕事に復帰するもあまり周りに話してなかった為、何事も無かったかのように仕事して笑顔を作って、家に帰るととりあえず泣くという生活をしていたので、自分の中でパリンって本当に音がして壊れてしまいました。
ある日仕事に行こうとしたけれど、電車に乗ることができなかったし、会社に連絡をするのもなにもやろうとしても出来なかった。次の日かなり怒られ、また同じような生活に戻りました。

友達もそんなに多い方ではなく、
誰に話せるわけでもなく、辛すぎた。

その時はそばにいて、何も言わなくてもいいから、ただ話しを聞いてくれる人が欲しかったんです。

でもいざという時話せる人いないし孤独だなってなってしまったんです。


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悲しみ過ぎてその時の彼氏にも振られてしまいさらに自暴自棄になっていました。


ホットラインに電話して、やっと気持ちを吐き出したら、少し落ちついたのです。

吐き出すの大事だなって思いました。




どんなに後悔してももうどうにも出来ないけれど本当に迷惑で苦労ばかりかけてしまうバカ野郎でした。今もか。だからこそこれからの生き方を有意義なものにしたい。



いつどうなるかも分からないのだから。




あ〜、泣いた。笑